台湾・南投県にある中台禅寺というお寺に行ってきた時の話を少しだけシェアいたします。
南投県にある中台禅寺は台中市からは車で約40分くらいでした。台中から南投へは高速道路ができたおかげで随分近く感じられました。
今回、このお寺に行った目的は、知人の台湾人の方がこちらのお寺でお仕事をされており、招待されたというより連れて行ってもらったというわけです。
私は特に宗教に興味があるわけでもなく、この宗派になんら関係があるわけではないのですが、せっかくお声を掛けてもらったため、知見を広めるためにもお伴させていただいました。
中台禅寺のお寺の中を紹介します
お寺の中には学院があり、こちらのお寺のお坊さんたちは、博士号取得者が多く、少なくとも修士以上の方たちばかりの超エリートさんたちだそうです。
そして、見るからに威厳のある顔つきの方や表情話し方から超エリートサラリーマンの臭いがする人たちばかりです。あるいは、大学の教授とか建築家とか弁護士とか…そんな方達ばかりのようです。
この学院は普通の大学や大学院と違い、年齢的にも平均年齢はかなり高いようです。
そして、この学院内では何から何まで完全に男女別々です。まず、トイレ、これは当たり前w
授業を受けるクラスも男性は男性のみ、女性は女性のみで分かれています。今回聴講させてもらった講義は残念ながら(?)男性たちでした。ちゃっかり、備品とかをチェックしたら男性クラス用とか書かれていました。
そして、昼食もよばれたのですが、食堂も男性と女性で食事をするスペースがしっかりと区分されていました。
そして、食堂では誰も一言も話していなかったので、そのことについて尋ねてみたら、食堂では話してはいけないルールになっているそうです。
宿舎もありましたが、当然こちらも男女別々です。
仏教学院の周辺には、小学校、中学校、高校など全て全寮制で教育機関が一箇所に集まっています。小学校では4つの外国語を学ばなければいけないらしいです。
私立小学校のため1年間の授業料は目が飛び出るくらい高いです。
こんな100%仏教の小学校なのに、ほかの宗教の子供達も学ぶことができ、実際キリスト教の子供も学んでいるらしいです。
中台禅寺は南投の観光スポット
このお寺を訪問した日は平日だったけれど、何十台かのバスが駐車場一杯に泊まっていました。
その観光客の内、7割くらいは中国からの観光客だそうです。そして、残りの3割ほどが台湾人や日本人などの他の外国人観光客だそうです。
今回は、このお寺の全てを見て回る時間がなかったけれど、丸丸1日掛かりで見て回ることができる規模だそうです。
何から何まで、とてつもない金額が投資され1つの社会が作り上げられています。
このお寺を訪問して、精神世界の凄さを感じると同時に精神世界の怖さも感じました。
こころの居場所を求めるのにお金の額は関係ないのでしょう。1元でもお布施、100億元でも同じお布施です。
社会における宗教の役割は何か?
台湾と日本の社会を観察する中で日本人と台湾人との違いを比較し、最も異なることの一つは宗教観念の違いだと思います。
そこで、今回は台湾の四大仏教の一つでもある中台禅寺に招待された時に、「社会における宗教の役割は何か?」というテーマを持って寺院内で自問自答してみました。
こんなことを深く考えたこともないのですが、台湾に移住して以来、台湾社会の中では、ありとあらゆる場面で宗教に関わることを目の当たりにしてきました。
そこで、上記のテーマに自分の考えに決着をつける意味でも自分なりの結論を備忘録的にまとめておこうと思います。
日本での宗教観念と無信教者
そもそも、一般的には日本では宗教とはどんな存在なのでしょうか?
私自身の宗教観念は、俗に言う無信教です。
ただし、両親の祖先はどちらの家系も仏教系です。そのため、私も何となく信教はと問われれば、何となく仏教と答えることになります。
ただし、仏教との関わり方は、一般的な日本人同様にお葬式とお盆だけです。それでも、両親は毎日、仏壇にご飯と線香や花を供えたりしています。ごく一般的な日本人の仏教徒の接し方と同じだと思います。
それでは台湾での宗教観念はどのようなものでしょうか?
台湾人の宗教観|台湾の生活に浸透する拜拜
台湾人と宗教の関わり方を一言で言えば、「日常生活の一部」です。私の妻の家族も毎日お経を読まないと落ち着かないくらい宗教観念が強いようです。
台湾ではこのようなことが、特別なのかと言えば、そうではなく、ごく一般的なようです。つまり、宗教的な行事は日常生活に浸透しています。
また日本とは比べ物にならないくらい、土地公と言われる寺廟が至る所にあります。その他、歩けば寺院に当たるくらいお寺が多く存在しています。
各宗教の共通項から宗教の役割を考える
これだけ宗教的な施設を目にすると、台湾社会にとって宗教はどのような役割を担っているのか、あるいは社会の中での宗教の存在価値は何か、という疑問も湧いてきます。
宗教観念がない私が宗教を語っても、全く説得力がないかもしれません。逆に言えば、無信教だからこそ客観的に宗教を観察することが出来るのではないかとも思います。
仏教、キリスト教、イスラム教、その他の宗教も含めて、共通していることは、「平和」、「人間愛」、「幸福」などの言葉が共通項になるのではないでしょうか。そうなると、私の結論としては、そこにしか宗教の最終目的を見出すことが出来ません。
人間は、自分が最も苦しい時や困った時には、「神様お願いします!」とお願いすることが多いですが、このような精神状態は、宗教の一つの役割をよく示していますね。
困難に陥った時の精神安定剤です。つまり、一個人の精神的支えとして宗教がその役割を担っているのだという考えに行き着きます。人は心の安定を求めて宗教に傾倒していき、人は神様の前で自分と向き合うことで、心の安定が得られるのでしょう。
社会にとって宗教の役割とは何か?
上記のような人の「心」と「宗教」の健全な関係と「社会」がどこで結ぶ付くのか?
宗教が心の支えとして一個人に対して、その役割を担っていることと、「社会での宗教の役割」とは少し異なりますね。
どの宗教でも、もう一つ共通したことがあります。私なりの表現をすれば、それは「欲の制御」(禁欲よりは少し範囲が広いかな)となります。
自分のためではなく自分以外の他者のために、そんな延長線上にボランティア精神が存在しており、そのことは言葉を変えて「人間愛」、「他利」、「社会幸福」と表現されているのではないでしょうか。
逆に言えば、人間の欲の制御が出来なければ、社会は争い事ばかり起こるのではないでしょうか。
個人個人が他人のために行動するような気持ちを持てば、自分の心と他人の心が一体化して、その一体感が広がって行き一つの宗教が成り立ちます。
また、一個人の心の安定が社会全体に広がっていけば、社会も安定すると考えられます。(論理の飛躍だと言われそうですが)人間にとっての宗教の役割とは、人間の心の安定であり、人間の心の統制であるのかもしれません。
宗教が、そのような人の心に関する「人間教育」を社会に普及させ、社会にその教育が浸透していけば、社会が安定し、最終的には世界平和が実現するのだという論理が成り立ちます。
社会に対する宗教の役割に関する結論
もう、上記に結論を挙げてしまいましたが、もう一度繰り返して言えば、社会にとって宗教が担う最も重要な役割は、「社会の安定」のために、個人個人に心の安定を養わせる「人間教育」というサービスの提供だと思います。
その心の支えを得るためのサービスを受けるために、お布施という形でサービス料を支払い、それと同時に各宗教は人間教育を通して、社会に対して「社会の安定」という重要な役割を果たしているのでしょう。
それ故に、宗教団体は公益性の高い団体と言われるのでしょう。逆に考えると人間教育さえもしていないような宗教団体は、社会にとって公益性のない、あるいは社会貢献をしていない脱税集団と言ってもよいのかもしれません。
コメント
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http://blog.goo.ne.jp/kensakuwatabe
プリでゲストハウスを経営されている方のブログです。
ゲストハウスを経営している日本人は高雄、プリ、台北等、
数人おられるようです。ご参考ください。
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コメントありがとうございます。
プリゲストハウスですね。
私もよくこのブログは拝見しております。
GH経営者さんとはまだお会いできていませんが、いつかお会いできるでしょう。
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