現在は台湾で日本語教師を大学非常勤講師という形で務めていますが、台湾移住前はこのような仕事をするというイメージは全くありませんでした。
ところが、よく考えてみると日本語教師あるいは日本語教育に関わる切っ掛けとなった初めての出会いは大学生だった頃の学生時代にありました。過去を振り返り、私と日本語教育それに台湾との接点を改めて思い起こしてみました。
日本語教育・日本語教師との初めての出会いは学生時代
私の大学時代の専攻は、その当時の時流に乗った形の「国際」と名の付く学科でした。今では、外国語学部に改組されていますが・・・。
そして、大学2年生の一年間が終わり3年生になる頃には、研究ゼミを選択する時期がありました。私の専攻した学科は、国際と名の付く学科だけに、様々な研究分野の先生が在籍しておられました。例えば、在籍する教員の専攻分野は、政治、哲学、歴史、文化、言語などに及んでいました。
そこで、私はその当時、研究ゼミの選択を国際政治と言語教育(日本語教育)の二つに絞りました。どちらにしようか、どちらの分野にも興味はあり悩みましたが、学生時代は怠け者だったため、最終的にはどちらの先生が厳しくて、どちらの先生が優しそうか、という判断基準で決めてしまいました。明らかに、日本語教育の専攻ゼミの先生が優しそうでしたので、日本語教育の分野を自分の選択ゼミの第一候補として申請しました。
いや、それだけではなく実際には、その当時は日本語教育という分野は現在のように、どこの大学にもあるような専攻ではありませんでした。今でこそ、多くの大学で主専攻・副専攻という形で日本語教育コースなるものが多くの大学で設置されていますが、当時はそのようなコースは特定の大学以外には、設置されていませんでした。そのため、少しばかりスペシャル感があり、漠然とした政治をテーマにするよりも、日本語教育は将来何らかの役に立つこともあるのではないか、という小さな希望も抱いていました。
また、人気のゼミは教員サイドで調整するということでしたが、私が選択した日本語教育を専門としている先生のゼミはどちらかと言えば人気がある研究室でした。そのため、自分の希望通りになるかどうか、心配でしたが、私の薄っぺらい熱意が伝わり、無事そのゼミを選択できるようになりました。
こんな経緯で日本語教育との初めての接点は学生時代にあったということを思い出します。もちろん、ゼミの先生は現役の日本語教師でもありましたので、初めての日本語教師との出会いも大学生の頃です。
アルク「NAFL日本語教師養成プログラム」受講の受難
そして、日本語教育に関するゼミに入ったのだから日本語教育を極めよう、とまでは考えていませんでしたが、比較的人気のあるゼミに入れたため、浮き上がっていたこともあり、日本語教師になるための勉強も始めてみようと、あらぬ方向へ考えが及びました。
そして、当時も現在も日本語教育では有名な「アルク」のNAFL日本語教師養成プログラムを受講することにしました。とは言っても、その当時は日本語や日本語教育に関することには全く知識がない状態でしたので、教材を受け取り直ぐにヤル気を無くしました。
教材内容は、その当時の私の能力のハードルを明らかに超えたものだったからです。どの学問あるいは分野にも向き不向きがありますが、一番最初に突き当たった壁は、日本語の音声学の部分です。教材で何度読み返してみても、理解できないだけでなく、全く面白さを感じませんでした。
そのため、何度も受講を諦めようと思いましたが、アルクの赤ペン先生から何度も励ましの言葉を受けて、その他の教材も何とか斜め読みをしながら、半泣きになりながら課題を全て終えたのは、1年間の延長受講を経て受講期限ギリギリでした。
大学の卒業論文は、まさかの「台湾での日本統治時代の日本語教育(国語教育)」という接点!
小見出しの通りですが、現在、台湾の大学で日本語教師をしていますが、思い出してみると、私の大学時代の卒業論文は、「台湾での日本統治時代の日本語教育(国語教育)」というようなテーマだったと記憶しています。その当時、同じゼミに台湾人の留学生も在籍していたという理由で、ゼミの教官により、ほぼ半強制的に私の卒論のテーマが決められてしまいました。
そして、なんと旅行好きだった私のことを察してくれたのか、台湾へは旅行へ行く予定はなかったのですが、これも半強制的に台湾に旅行に行ったついでに、日本統治時代に国語(日本語)教育を受けたことがある方を訪ねてインタビューと調査をしてきたらどうかと、恫喝されました。(嘘)提案されました。そんな理由で、私は表向きは自費で研究調査目的の台湾旅行をする機会を得ました。台湾との出会いもドラマチックな展開です。(笑)
そして、台湾の留学生から年配の方を紹介され、彼らにインタビューをして、当時の日本が実施していた国語教育の状況を基に卒論を書きました。卒論とは言っても、半分くらいはインタビュー内容を書き下ろしたものでしたので、こんな内容で大丈夫なのか、と心のどこかに後ろめたさがありました。ところが、主査であるゼミ担当教官だけではなく、副査の教官からも、まさかの賞賛の声が届けられるとは、提出した時は想像もしていませんでした。
たぶん、殊勲賞というよりも敢闘賞といった意味合いでの評価だったのではないかと思います。わざわざ台湾にまで行き、現地台湾の方へのインタビューまでして、卒論を書くという研究姿勢と行動が評価されたのでしょう。
いや、今となっては研究のためのインタビューよりも、初めての台湾旅行のことしか記憶にありませんが・・・。それもそのはず、台湾滞在中にインタビューをしたのは1日だけで、その後はず~と台湾全島を電車とバスで一周して旅行を満喫していたのは、ここだけの秘密。
日本語教育と台湾の接点は学生時代にあり、年月を経て結びついた現在
このように振り返ってみると、私と日本語教育の接点は大学時代にあったことを思い出します。その当時は、オーストラリアで日本語でも教えながら、英語を身に付けられないか、などと僅かな希望を抱いていましたが、大学卒業後はアメリカへ向かい、その後、どういうわけか日本語を教えるという熱意のようなものは薄れていきました。
また、初めての台湾旅行も、日本語教育との絡みで偶然の切っ掛けでした。大学の時の研究ゼミに中国の留学生がいたら、その時は台湾ではなく、中国へ旅行に行く羽目になっていたかもしれません。そして、あろうことか、日本語教育に関するアルクの日本語教師養成プログラムの通信教育まで受講して若き青年は日本語教師を目指していた時期があったことを思い出しました。